Our Story
ものづくりに精通した兄・関根 孝志と医療業界での豊富な経験を持つ弟・関根 敦。15歳から71歳まで金型製作の職人であり続けた父・関根 恒夫。父は2012年に他界しましたが、多くのことをわたしたちに残してくれました。金属加工用の機械設備、ものづくり技術、仕事へ真摯に取り組むことの大切さ。このどれもが、カーターテクノロジーズを立ち上げるために必要な要素でした。
そして、2013年9月18日、父の誕生日であるこの日に、わたしたちは兄弟2人で、カーターテクノロジーズを立ち上げました。
兄が設計、製作した試作機を弟が検証実験で評価する。弟が薬事対応を行い、兄が製品を製造する。それぞれの経験や特徴を活かしたハーモニーは、至極のものづくりを生み出します。
飛行機を発明したライト兄弟のように
ゲーム業界を席巻したマリオブラザーズのように
わたしたち兄弟は、医療機器産業のものづくり分野に名を刻めるように、
ここからチャレンジを始めます。
社長あいさつ
当社は医療機器の開発・製造サービスを提供するものづくり企業です。
当社はまだ立ち上げたばかり、更には兄弟で経営している小規模な企業です。よって、一般的に言われる経営資源である「ヒト・モノ・カネ、さらには情報やネットワーク」が全て整っている訳ではありません。ただし、「ヒト」に関しては長年の医療機器部品の製造や金型製作の経験をもった技術者である兄と、わたし自身の医療産業での経験があります。「モノ」に関しては、父が残してくれた金属加工の機械設備を一通り有しております。残念ながら潤沢な経営資源としての「カネ」はありませんが、その代わりに周辺には優れた技術を兼ね備えた企業が多数存在しており、ものづくりネットワークが構築されております。これら限られた経営資源ではありますが、お客様が満足するものづくりを目指し、全力でサポートさせていただきます。
現在、日本のものづくりは激変の時代を迎えています。特に当社のような小規模に営んでいる町工場や中小企業の製造業者は海外製造所との熾烈なコスト競争の中で生き残りをかけた戦いに晒されております。このような厳しい背景ではありますが、持ち前の起業家精神で挑戦を続け、わたしたちのサポートした医療機器で患者さんはもとより、医療関係者や地域の方々の健康と生活の質の向上に貢献できればと思っておりますので、今後とも一層のご理解、ご支援を賜りますようお願い申し上げます。

Matsubushi Koba
松伏工場
埼玉県北葛飾郡松伏町松伏3207
自宅の軒先に構えた小さな作業場。
リビングを改装して作った設計室。
金属加工用の機械設備が所狭しと並んでいる、この工場から、
わたしたちの「ものづくり」が始まります。
Kawaguchi Medical Atelier
川口メディカルアトリエ
埼玉県川口市柳崎1-18-11 柳崎マンション103
外観はただのアパートですが、内観をご覧ください。
兄が床を貼り、弟がペンキを塗り、母が掃除をしました。
家族で作ったこの小さなアトリエで、
心を込めて製品の組立・包装作業を行います。
My Story - Takashi Sekine
「ものづくりに没頭する」
当社の根幹である「ものづくり」を一手に担当する。自らお客様のところに出向き、現場の声を聞き、自ら設計を行う。各種加工機を操りながら、時に手仕上げも組み合わせ、試作機や製品の製作を行う。
1990年、春日部工業高校 機械科を卒業後、染谷精機株式会社に入社、ものづくり職人としての道をスタートする。プレス金型の製作を通じて、設計技術、加工機の操作等、金属加工に関するイロハを習得していく。その後、父・恒夫が経営する関根製作所へ入社、ここからは父との二人三脚で、金型製作の業務を行う。根っからの職人であった父に対し、自動機の導入を提案、NCフライス、ワイヤー放電加工機などの設備投資を積極的に行った。「これらの設備を導入すれば、仕事も増える」そう描いていた未来は…景気の低迷も相まって、予想よりも受注高は上がらなかった。
この時、活路を見出したのが医療機器部品であった。長年、近隣の医療機器メーカーから部品の製作を依頼されていた。プレス用の金型を製作し、その金型を使い自社のプレス機で部品に仕上げた。時に新しい製品の試作を依頼されることもあり、受注高は景気に左右されずに安定していた。
そして、2012年、医療機器部品を専門に取り扱うビジネスを開始、2013年にカーターテクノロジーズ株式会社を弟と2人で立ち上げた。会社の設立と同時に医療機器製造業を取得し、部品製作だけではなく、開発から製造までワンストップで対応できるビジネスモデルに進化させた。
小学生の図工の時間、「働くひと」をテーマにした版画制作の課題があった。その時、迷うことなく「父がコンターで金属を加工している姿」を描いた。この時から職人である父の姿に憧れていたのかも知れない。進学の際、普通高校を選ぶ多くの友人を尻目に、工業高校の機械科に進んだ。他の職業は考えられなかった、後にも先にも、ものづくり一筋である。 「へぇ~こんな風に作れるんだ」という声が聞きたくて…、今後もものづくりに没頭します。